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私は現在39歳。夫と一緒に5歳の男の子を育てている。
この病気になったのは約10年前だから、髪の毛がない状態で子供を生んだ。出産した時は、遺伝のことを知らなかったので、何も考えずに生んでしまったが、この病気の遺伝する割合が30%と知った今ならどうしただろうか。たぶん、生む選択をしただろうな。
かけがえのない命と、ほんの少しの不都合など、天秤にかけるまでもないのだから。
子育てをする上で、この病気で困っているということは、現在、ほとんどといってない。
私は、普段、家の中ではウィッグをつけていないので、子供は、私に髪の毛がないことを赤ちゃんの頃から、知っている。勿論、もう5歳なのだから、私はよそのお母さん達や夫とは違うということもわかっている。
でも、生まれた時から、そういう環境の中にいるので彼にとって、私が脱毛症であることは、ごく自然に受け容れられているという感じだ。
たまに「どうしてお母さんは髪の毛がないの?」と聞いてくる時もある。
そんな時、私は、「うん、お母さん、病気なんだ。だから治療にも通っているよね。」と応える。ただそれだけである。彼が、私の頭のことを憂えている様子は微塵もない。
これから先も、子供が私の病気のことで悩んだり、いじめられたりすることはまずないと思う。私達親子は、髪の毛がある人達とまったく変わらないどこにでもいる、ごく普通の親子であるだけだ。
私は子育ての傍ら、手話と点字を勉強している。
これは子供が生まれる前から続けている私のライフワークのようなもので、やはり、脱毛症になってから、こういう言い方は失礼かも知れないが、何か決定的に欠けている人、障害をもっている人と接触すれば、自分の努力やお金だけでは、どうすることもできない何かを抱えて生きていくということを受け容れる姿勢を、垣間見ることができるのではないかと思ったからだ。
だが、これは、子供を育てるということに、意外に、大きな福音をもたらしたのではないかと思う。
この会報をお読みの皆様もそうだと思うが、私達は、たぶん、一般の人よりもずっと「普通」であることについて、考える機会を、嫌というほど与えられたのではないだろうか。「普通」であること、皆と同じであることとは、一体どういうことなのか。一体どういう意味を持つのかと。
そして、手話や点字を学ぶ事も、同時に「聞こえないこと」、「見えないこと」とは一体どういうことか、そして、逆に「聞こえること」、「見えること」とはどういうことかを考える作業だ。やはり、私達の病気は障害とはいえないが、何か根底に流れているものに、共通点があるような気がする。
そういうことを日々考えながら、子供に接していると、まず、子供についての些細な悩みは、皆、塵のように思えてくるから不思議だ。
真偽のほどがわからないいろいろな情報に振りまわされ、よその子供と比較することでしか、自分の子育てに安心感を持てない、昨今のお母さん達を横目に、私は、自分でも、どっしりと腰を据えて、子供に向き合えている自信がある。
この会報をお読みの皆様の中には、これから、結婚を考えたり、出産を考えたりしている人、また、子育て中の人も多いのではないかと思う。
そういう方々に是非、言いたい。
人より、ずっと悩んで、ずっと苦しい思いをしてきた、私達は、人よりもずっと人の痛みに敏感で、優しい心を持っているはずだ。
髪の毛を失っただけで、逆に手に入れたものは自分で考えるよりもずっと多いのではないだろうか。
だから自信を持って、自分の人生にチャレンジして欲しい。 (完)
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